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イバッハ (Rud.Ibach Sohn)
イバッハ (Rud.Ibach Sohn)

イバッハは今から210年以上も前の1794年に創業した、ドイツ最古の歴史を持つピアノです。しかし、残念な事に我が国では、このピアノはあまり知られていません。

「イバッハ」の創始者である、ヨハネス・アドルフ・イバッハは、1766年にバ-タンで生まれました。彼はドイツ中のオルガンとピアノのメーカーを訪ね歩き、様々な技術を吸収して、「免許皆伝」に当たるマスター・オブ・アートの技術を学び取りました。

イバッハ親子3人は、ナポレオン戦争真っ只中の時代に、空腹に耐えながらも古今の名器を生み出したのです。

1804年に生まれた2代目カール・ルドルフ・イバッハは、1825年に21歳で工場を継ぐと、初代の偉業を受け継いで、ヨーロッパを自分のピアノと共に周って博覧会に出品して次々と賞を獲得して名声を高め、急激にイバッハを繁栄に導いて行きました。

1843年生まれで、20歳で3代目を継いだルドルフ・イバッハ・ジュニアは、天賦の奇才と未来を先取りする洞察力を併せ持ち、工場拡大に多彩な才能を発揮しました。彼は、ヨーロッパ諸国を歴訪し、当時の有名な音楽家と親交を結び、イバッハのピアノを多くの人々に知らしめる功績を果たし、リヒャルト・ワーグナー、フランツ・リスト、エミール・フォン・ザウアー、マックス・レーガー等多くの大音楽家達がイバッハを愛好し絶賛し続けました。
特に、リヒャルト・ワークナーは、ワーグナーはルドルフ・イバッハ・ジュニアに対して、1882年に自身の等身大の写真と共に 「親愛なる『音作りの達人』ルドルフ・イバッハ氏に心から感謝の意を表す」と最大の賛辞を送っています。また彼は、ピアノのケースを芸術的なものにするために最大の努力を払いました。

現在、世界の様々なメーカーがその粋を集めて製作した、真に芸術的な外観を持つアートピアノが多く残されていますが、この功績は彼に帰されるべきでしょう。また、彼の弟、ワルター・イバッハに修行の旅を命じて、数年に亘って諸国を飛び回り、ピアノ製造における最新の技術を吸収しました。彼の学び取った幾多の貴重な技術は、イバッハの製造を飛躍的に向上させ、近代化させました。その後、4代目A・ルドルフ・イバッハ、5代目J・アドルフ・イバッハ、6代目ルドルフ・クリスチャン・イバッハ、ロルフ・イバッハに引き継がれました。

イバッハの工場はデュッセルドルフ近郊のシュヴェルムにあって、ドイツ最古の歴史を誇るピアノメーカーとして、優美で性能が抜群のピアノを製作し続けました。イバッハのピアノには無限の耐久性があると言われ、ピアノの「ロールスロイス」と言われる由縁でもあります。

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ベヒシュタイン (C.Bechstein)
カール・ベヒシュタイン

カール・ベヒシュタイン

ドイツが誇る世界屈指のピアノメーカーであるべヒシュタイン社は、創業者カール・ベヒシュタインによって1853年にドイツ・ベルリンで創業しました。

1826年ドイツに生まれた彼は、1844年までエアフルトの義兄のもとでピアノ製作を修行し、ドイツのピアノメーカーであったペローの工場を経た後、ドイツに世界的名器をもたらすという強い志を持って、27歳までドイツ国内、イギリス、フランスを修行の旅に出ます。

当初は人を雇う余裕も無く、第1号のアップライトピアノを1人で9ヶ月かかって作り上げました。

彼はアメリカで採用され始めた、弦を交差するシステムと、イギリスのピアノが持つ力強いトーン、そしてフランスのピアノの持つ素早いレペティション・アクションを採用することで、近代の強靭な演奏に耐え得る、尚且つフランス・ピアノのような甘く優美な音色のピアノを製作し、ロンドン、パリにおける工業博覧会において金賞、銀賞をとるなど、数多くの賞を得て、ピアノメーカーの地位と名声を確固たるものにしていきました。

さらに、ベヒシュタインのピアノは、創業間もない頃から、当時の代表的なピアニスト・指揮者ハンス・フォン・ビューローによって「ベヒシュタインは、ピアニストにとってヴァイオリン奏者のストラディヴァリウスやアマティに値する」と絶賛され、またビューローの師フランツ・リストもベヒシュタインを終生愛用し続け、その手紙には「私は、20年もの長い間、貴殿のピアノを使い続けているが、いずれの楽器も全くその優秀さを失っていない」と絶賛しています。

ベヒシュタイン・ピアノは第2次世界大戦までに"世界最高のピアノ"としての名声を確立し、世界の代表的なコンサートホールのほとんどに、そのコンサートグランドピアノが常備されるほどでした。
日本においても、戦前の東京音楽学校(現・東京芸術大学)奏楽堂をはじめ、日比谷公会堂などを中心とするコンサートホールにベヒシュタイン・ピアノが常備されていました。

ベヒシュタインを愛用し続けた歴史的なピアニストには、綺羅星のごとき大家が名を連ねます。前述のフランツ・リスト、ハンス・フォン・ビューローに加え、リストの弟子として名高いオイゲン・ダルベールやフレデリック・ラモンド、ベートーヴェンの大家として名声の高いアルトゥール・シュナーベルやウィルヘルム・ケンプがベヒシュタインを使用して名録音を残す一方、第二次世界大戦後では、ホルヘ・ボレットがベヒシュタインを用いて、鮮烈な音色を奏でたリストの名演などが挙げられます。"ベヒシュタイン・トーン"といわれるその美しい音色の秘密は、響鳴板の構造と弦の高い張力、全音域にわたる総アグラフにあると言われ、160年近くに至る伝統を今も受け継いでいます。

ウィルヘルム・ケンプと貴志康一(1936年 荏原の旧新交響楽団練習所にて)

ウィルヘルム・ケンプと貴志康一
(1936年 荏原の旧新交響楽団練習所にて)

ここで、歴史的な音楽家達からベヒシュタインへ対する賛辞を挙げてみましょう。

クロード・ドビュッシー
「ピアノ曲はベヒシュタインのためにだけ作曲されるべきである。」

ウィルヘルム・ケンプ
「ベヒシュタインの時代に生きて幸せです。」 (※ケンプは戦前1936年に初来日の折、日比谷公会堂の新交響楽団(現NHK交響楽団)との演奏会で指揮者の貴志康一と共演し、その際にもベヒシュタイン・コンサートグランドピアノE型を使用しました。)

カットナー・ソロモンとベヒシュタイン

カットナー・ソロモンとベヒシュタイン

カットナー・ソロモン
画像は1953年10月5日広島市東洋座にて、広島県立尾道東高等学校所蔵のベヒシュタインE型を使用したソロモンのリサイタル風景です。

ウィルヘルム・バックハウス
「この魅力的なベヒシュタインの熱狂的な信奉者になれたことを喜ばしく思います。」

ウィルヘルム・フルトヴェングラー
「ベヒシュタインは特に高貴で力強く、それでいて甘く気品のある音、現在の間違いなく最高のピアノです。」

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ブリュートナー (Bluthner)
ユリウス・ブリュートナー

ユリウス・ブリュートナー

ドイツが誇る世界的名器の中で、ベヒシュタインを西の横綱と例えるならば、その双璧と言われ、正に東の横綱と呼ばれるに相応しい名器こそ、ライプツィヒのブリュートナーに他なりません。

その創業者ユリウス・フェルディナンド・ブリュートナーは1824年ドイツで生まれ、1853年10月18日にライプツィヒ(旧東ドイツ)にて創業しました。

ベヒシュタインと同時代に活躍したメーカーですが、ベヒシュタインがヨーロッパ中を巡って技術を学んだのに対し、ブリュートナーはほとんど外国に出ることはありませんでした。

ブリュートナーが一流となったのは、彼の驚異的な耳の良さと、そこから来る音作りによるものといわれ、その整音技術は当時彼の右に出るものがなかったと言われています。

ライプツィヒでは、かつてバッハがカントールを務めた聖トーマス教会の聖歌隊、ゲヴァントハウス管弦楽団、ライプツィヒ歌劇場、ライプツィヒ音楽院(現メンデルスゾーン音楽演劇大学)といった、歴史的にも恵まれた文化環境に囲まれており、ブリュートナーのピアノは、友人であったリストやワーグナーら偉大なる音楽家たちの助言のもと、熱心にピアノの研究、改良に取り組み、完成して行きました。

そして、リストはもちろん、ブラームス、チャイコフスキー、ラフマニノフ(主に帝政ロシア時代)、ドビュッシーといった著名な音楽家たちにも愛用され名声を高めると共に、メンデルスゾーンが創立し、自らも指導に当たった事で著名なライプツィヒ音楽院にも納入され、そこで学んだ生徒達、そしてその卒業生達と共に世界中に名声が広まりました。
その評判はドイツ国内にとどまらず、オーストリア、デンマーク、ギリシャ、イギリス、ロシア、トルコとヨーロッパ全土へと広がり、世界各国の王侯貴族にも愛されてきました。

そして世界各国で開催される博覧会にも出品し大いに賞賛され、多くの大賞、金賞を受賞しています。
1867年パリ万国博覧会では1等賞の栄冠に輝きました。1872年には、かの有名なアリコート方式の特許を取得しました。響きの少ない中高音域の各音に共鳴弦を加えて最適な比率関係にすることで、音が伸びてより明るく豊かな音色が生み出されました。この倍音を増やしたこと生まれた響きの豊かさが、著名な作曲家や一流のピアニストらに評価され、ブリュートナーはヨーロッパ最大級のピアノメーカーへと発展しました。

世界を代表的するコンサートホールの多くに、そのコンサートグランドピアノが常備されており、日本においても、明治時代の東京音楽学校(現、東京芸術大学)奏楽堂にも納入されており、「荒城の月」で知られる作曲家、滝廉太郎がブリュートナーを演奏中の写真が残されているほか、戦前の日比谷公会堂にもベヒシュタインと共に常備されており、戦前戦後を通じて、レオニード・クロイツァー、ラサール・レヴィなども来日時に日比谷公会堂でブリュートナーを使用しました。

第2次世界大戦後、ブリュートナーは東ドイツの会社となり、社会主義体制の下で1972年には国有化されてしまいましたが、1990年ベルリンの壁の崩壊から再び、創業者の家系に経営権は戻り、現在は創業者ユリウスのひ孫が経営しています。現在、ブリュートナーでは、創業者の意志を受け継いで創業当時から一貫した理念のもと、現在でもほとんど一台一台手作業で丁寧に製造されています。

ラフマニノフとブリュートナー(帝政ロシア時代)

ラフマニノフとブリュートナー
(帝政ロシア時代)

ブリュートナーピアノの最も有名で重要な特徴としてアリコット・スケーリング・システムが挙げられます。

彼が最も苦心したのは、従来響きの貧しい高音部の音量の増量とそこから来る音色の充実でしたが、彼は、アリコット・スケーリング・システムという高音部の3本弦に実際に打鍵されない4本目の弦を付け加えて共鳴させる事によって解決させたのです。

さらに詳しく説明しますと、この発明は普通3本の高音部の弦を4本にすることですが、4本目の弦はハンマーに打鍵されず、共鳴させるためのみにつけられています。

これにより低音部の音量に負けない芳醇な音量・音色を可能にしたのです。

ここで、歴史的な音楽家達からブリュートナーへ対する賛辞を挙げてみましょう。

ウィルヘルム・フルトヴェングラー
「ブリュートナーピアノは真に歌うことができる。おそらくこれは、楽器に呈する讃辞として最高のものである。」

マッス・レーガー
「あなたが作ったブリュートナーグランドピアノにはこの上ない感銘を受けました。最高の讃辞を贈りたいと思います。そのタッチは比類のないものであり、またその音色は完璧な美を表しています。このピアノを作ったあなたに絶対の賞賛を贈ります。 」

アルトゥール・ルービンシュタイン
「コーヒーと葉巻で一服してから、レコーディングルームに私たちが入るとそこには一台のブリュートナーピアノがあった……。され、このブリュートナーには、それまで耳にした中で最も美しい、歌うような音色があった。俄然やる気のみなぎった私は大好きなショパンのバルカローレを弾くことに決めた。そのピアノが私にインスピレーションを与えてくれたのだ。これまでの人生で、この時ほどうまく弾けたことはないと思う。」(自伝「神に愛されたピアニスト」より)

グスタフ・マーラー
「伝統とは炎が告ぎのものへと移る事であり、炎を崇める事ではない。」

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ファッツィオリ (Fazioli)

“ピアノ”という楽器が発明された国、イタリアで1978年に創業されたファツィオリ社は、150年以上の長い伝統も持つピアノメーカーで占められる、世界のトップブランドの中にあって、飛び抜けてその歴史が新しく、驚異的なスピードで成長した、世界的に最も注目されているピアノメーカーです。特にモデルF308という世界市場で最大クラスのコンサートグランドピアノは広く知られています。

創業者パオロ・ファツィオリ(Paolo Fazioli)は1944年ローマに生まれました。当時彼の父親は、ローマで家具工場を営んでいました。パオロは幼少より音楽の才能を示し、特にピアノには強い興味を見せ、やがてピアノを学び続ける傍ら、ローマ大学で工学を専攻します。ここでピアノ製造技術に対する興味を深め、ピアノ製造工場や修理工場を訪ねるなど研究を重ねました。

1969年パオロはローマ大学で工学学士の学位を取得しました。

1971年パオロはペーサロ市のロッシーニ音楽院でピアニストとしての学位を取得したのに続き、ローマ音楽院で作曲家を学び、作曲の修士学位を取得しました。この間、家業は拡大され、木材加工の新しい技術を導入を皮切りに、木製オフィス家具製造工場をサチーレ市に二つ新設、またトリノ市に金属金具の工場が開かれました。サチーレ市の工場ではチーク、ローズウッド、マホガニーなどの銘木が使用され、その家具は世界中に輸出されました。

パオロは大学卒業後直ちに家業に加わり、木材加工について科学的な知識を身につけて専門家となりました。こうして設計、製造技術に自信をつけ、パオロはグランドピアノを作るというプロジェクトに乗り出します。彼はまずピアノという楽器の能力と性能を分析しながら、ピアノ製造の詳細にわたる研究を進め、彼の父親や兄は彼に対する協力を惜しみませんでした。

研究開発および製造のために必要な協力を兄たちから受け、彼は世界最高水準の製造技術と仔細な分析から、自分が造りたいピアノの全ての要素を明確に決め、最先端の音響と素材の研究から考案した様々な設計の改良を加えることで、最高の楽器の製作を確信します。

1978年、エンジニアの知識、研究と経験と伝統的なピアノ技術者の技術の組み合わせにより、サチーレ市の家具工場の一角に、「ファツィオリ・ピアノ工房」を開設。この工場では豊富な木材や、研究や分析のための施設もあり、さらに専門的な職人等の全ての条件が満たされていました。

1979年には、環境音響学と音楽音響学の専門家、木材の専門家らの支援を受けてF183、F156、F278も設計を開始し、1980年6月、F183の初めてのプロトタイプが製造されました。11月にはF156およびF278のプロトタイプも完成し、1981年1月にFazioli s.r.l.社が設立され、F156、F183、F278の3機種を業界及び報道機関に発表。2月にはフランクフルトムジークメッセで発表され、翌年2月の同メッセには、上記にF228を加えた4機種が公開された。3月には600㎡の製造スペースを設け、月2~3台のペースでピアノ製造を開始。

1983年ポルデノーネにあるザヌーシ・センターとの共同作業が開始。ここでは更なる音質の改良を目的とした研究が行われました。
1984年にはアルド・チッコリーニ、アルフレッド・ブレンデル、マルタ・アルゲリッチ、ウラディーミル・アシュケナージ、ラザール・ベルマン、ニキタ・マガロフ、ミシェル・ベロフ、アニー・フィッシャー、ルイ・ローティ等の著名なピアニストたちがファツィオリのピアノを弾くようになり、最初の成功を収めました。影響力のあるコンサートホールがファツィオリのピアノを購入し始め、ヨーロッパの重要な国々や米国への輸出が始まりました。

同時に、大きなコンサートホールで弾くための、さらにパワーがあり、倍音にも富むピアノの必要性を認識し、現在市場で最長のコンサートグランドピアノF308を着想。1985年にはF212とF308の新しい2つのモデルが開発され、翌年そのプロトタイプが完成し、1987年にF212がフランクフルトムジークメッセで発表されました。

同年4月にモンファルコーネのテアトロ・コムナーレで、ピアニストのフランソワ・ヨエル・ティオリエが二つのチャイコフスキーの協奏曲を弾き、最初のF308のプロトタイプが初めて公の舞台で使用されたのを皮切りに、同年ラザール・ベルマンがカーネギーホールでリストのピアノ協奏曲第2番を弾くためにF308を使用し、マレイ・ペライアもヴェニスのゴルドーニ劇場でのコンサートでF308を使用。年末にはアルフレッド・ブレンデルがイタリア各地でのコンサートにファツィオリのピアノを使用しました。

1988年にはピアノ工場が二倍に拡張され、最新設備も導入され月7~8台のピアノの生産が可能になりました。
1994年、カリフォルニアのアナハイムで開催されたNAMMショーで初めてファツィオリのピアノが展示され、これにより北米市場での地位を固めました。また同年、上海ミュージックメッセに出展し、中国市場での成功の端を開きます。オーストラリアのシドニータウンホールでファツィオリのピアノが設置され、ソルトレークシティでのジーナ・バッカウアー国際ピアノコンクールでも、ファツィオリのピアノが選ばれました。

1955年、F308がNAMMショーで紹介され、その後ロサンゼルスやソルトレークシティでコンサートに使用されます。6月にはF308が北京で公開され、北京中央音楽院にファツィオリの楽器が購入されました。エリザベス・レオンスカヤを始めとして、ファツィオリ・ピアノに熱中するピアニスト達が増えて行きました。

1966年にはウィーンのムジークフェラインザールでのインゲボルク・バルダスティやエリザベス・レオンスカヤ等によるコンサートにファツィオリ・ピアノが使用されました。同年、ブルネイ王室用に、宝石類や貝の真珠層、エキゾチックな銘木などの象嵌が施されたユニークなコンサートグランドが製作され、スタンダードな黒いピアノに加え、いくつかの個性的なアートケースピアノの製造を開始しました。

1997年、世界で最も有名なジャズフェスティバルの一つである、ウンブリアジャズフェスティバルでF278とF308が初めて使用され、オルヴィエートでの冬季コンパニオンフェスティバルと同様、今日も当フェスティバル中で使われるピアノとしての地位を独占しています。ウンブリアジャズフェスティバルを通じてハービー・ハンコック、マーシャル・ソラール、ブラッド・メルドー、チューチョ・ヴァルデス、ミシェル・カミロ、ユリ・ケイン、ケニー・ バロン、ステファノ・ボラーニ、エンリコ・ピエラヌンツィ、ダニーロ・レアなど幾人ものジャズの巨匠たちがファツィオリのピアノに魅了されていきました。

1998年、当時の工場の隣に14,000㎡程の土地を確保し、年間150台のピアノ製造可能で音響研究のための施設やコンサートホールを併設した、世界最先端のピアノ新工場が竣工し、2001年にまず工場が完成。

次いで2005年に併設のファツィオリ・コンサート・ホールがオープンし、そのすばらしい音響が喝采を受けています。

2008年、日本総代理店ピアノフォルティ株式会社が設立されました。

☆ファツィオリは、以下の信念を持ってピアノ製造を続けています。

  • コンサートグランド、グランドピアノのみを造り、生産量を増やすことは考慮せず、最高のクオリティを目指すこと。
  • 他のどの現存するピアノをも真似ず、むしろ独自のサウンドを作ること
  • 由緒ある伝統的技術と最新の進んだ技術とを組み合わせてピアノを一つ一つ、手仕事で造っていくこと。
  • 常に最先端技術を駆使してピアノの改良に励むこと。
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スタインウェイ(Steinway & Sons)

"世界のピアノの代名詞"と言われるスタインウェイは、その創業者であるハインリッヒ・エンゲハルト・シュタインヴェーク(のちに「ヘンリー・スタインウェイ」と英語流に改名)が苦しい修業の末、1836年ドイツのゼーセンの自宅のキッチンで最初のピアノを作り上げました。これがスタインウェイピアノの第1号"キッチンピアノ"です。

ドイツで1842年に革命が起ったことから、ヨーロッパの政情不安に伴い、1851年にハインリッヒ・シュタインヴェークとその妻や子供たちはアメリカに移住して、1853年にニューヨークにスタインウェイ・アンド・サンズ社を創業し、最初の工場を構えます。

因みに、"スタインウェイ"という名前は、元のドイツ名シュタインヴェークを英語名に改めたものです。

その後のスタインウェイ社は目覚しい発展を遂げて、たちまち頭角を現し、翌1854年にはワシントンの博覧会で金賞を受賞するなど、急激にその評価を高めました。

その後、1875年にはロンドンに支店とスタインウェイ・ホールを開設し、さらに1880年、ドイツ・ハンブルクに工場を設けて生産を始めました。これが後にニューヨーク製と並んで一世を風靡する「ハンブルク・スタインウェイ」のはじまりです。

スタインウェイの名声は爆発的に世界中に広がりを見せました。この時代にスタインウェイによって現代ピアノ(モダン・ピアノ)製造が確立されました。スタインウェイは今日でも工程の80%が手作業で行います。それはグランドピアノもアップライトピアノも同様で、1台のピアノ製作に約3年の歳月をかけるといわれています。

現在はニューヨークとハンブルグで製造されていますが、世界中の大半のホールに設置されていると言われ、熱烈なファンを持っています。特に、歴代のスタインウェイ・アーティストに次の伝説的なピアニスト達がいます。

1870年代にスタインウェイ社が初めて招聘して未曾有の成功を収めたアントン・ルビンシテイン、優れたヴィルトゥオーソとして活躍し、第1次世界大戦後に独立した祖国ポーランドの初代大統領となったイグナッツ・ヤン・パデレフスキ、同じくポーランド出身で類例の無い天才ピアニストとして華々しくデビューし、大ピアニストへの道を駆け上がったヨーゼフ・ホフマン、ロシアの著名な作曲家にして大ヴィルトゥオーソであったセルゲイ・ラフマニノフ、同じくロシアの伝説的ピアニストでラフマニノフの友人であったヴラディーミル・ホロヴィッツ、ポーランド出身の巨匠アルトゥール・ルービンシュタイン、カナダ出身の鬼才グレン・グールドなど、音楽史・演奏史を飾る幾多の代表的なピアニスト達によってスタインウェイは愛用され、その名声は決定的なものとなり、正にピアノ製造史の中にあって不動の地位を築いたと言っても過言ではないでしょう。

また、現在スタインウェイ社では、ボストン、エセックスという2つのブランドがあり、それぞれ設計・デザインを手がけ、スタインウェイの素晴しいエッセンスを盛り込んだピアノを製作しています。

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グロトリアン (Grotrian)
フリードリッヒ・グロトリアン(1803 〜 1860)

フリードリッヒ・グロトリアン
(1803 〜 1860)

グロトリアン・シュタインヴェーク(現:グロトリアン)は、スタインウェイの創業者であるハインリッヒ・シュタインヴェーグ愛弟子フリードリッヒ・グロトリアンと、ハインリッヒの長男テオドールが1835年にドイツ・ブラウンシュヴァイクで創業した、長い伝統を誇る、世界を代表する、最も優れたピアノメーカーの一つです。

1839年、ブラウンシュヴァイクの博覧会にグランドピアノ1台とスクエアピアノ2台を出品し、ゴールドメダルを獲得したといわれています。これにより、ピアノメーカーとしての地位を確立しました。グロトリアンはシューマンの妻であったクララ・シューマンや、ワルター・ギーゼキング等、幾多の名ピアニストがコンサートで使用し続けてきました。

グロトリアン創業期の工房

グロトリアン創業期の工房

グロトリアンは、ハインリッヒの木材へのこだわりと、息子テオドールの音響学の知識で音色と音量へのこだわりから、響板やフレームに次々に革新的な改良を施していきます。

彼の作るアップライトピアノは、そこらのグランドピアノを凌ぐ音色と音量を発揮したと言われます。

しかし、当時のヨーロッパ全体の社会への不安から、スタインウェイ一家は長男テオドールをドイツに残してアメリカへ移りました。

テオドールはドイツの工場を守り続けましたが、アメリカでのハインリッヒの工場が繁栄を極めて多忙になり、やがてテオドールもアメリカに呼ばれ、ドイツとアメリカの往復で多忙になった彼は、グロトリアンを筆頭とする3人の弟子(グロトリアン・ヘルフェリッヒ・シュルツ)に会社を売却しました。

これが後にグロトリアン・シュタインヴェークとなったのです。

現在の最新鋭工場

現在の最新鋭工場

グロトリアン・ピアノは、そのピアノ作りにおける最大の特徴として、響鳴板が挙げられます。

グロトリアンの音の特徴は、「シンギングトーン」といわれるように、まさに人が歌うような音だと形容されています。その音作りに決定的な影響を与えるのが響鳴板で、それゆえグロトリアンの響鳴板は、「シンギングボード」と呼ばれています。

グロトリアンは、この響鳴板に心血を注ぎ、その伝統を守り続けています。

グロトリアンの響鳴板には、アルプス山脈のある一定の標高の北斜面に一様に生育するスプルースを含水率が最も低い冬の間に伐採し、長期に亘って自然乾燥させたものが用いられています。さらに、この原木から加工された木材から、高い弾力性等の音響特性において優れた材料だけが選び抜かれて、バランスよく組み合わせる事によって、ホモジュナス・サウンドボード (均一性の高い響板) が造られます。

これは、日本の調律師の杵淵直知氏が、ドイツ滞在中に奥様に書き送った手紙の中で、ドイツのピアノ専門家の意見として、次の様にグロトリアンにふれています。

「ドイツでピアノが10あって9つが響板が割れたとする。残った響板の割れないピアノがあったら、それはグロトリアンだ。」
「アップライトは、グロトリアンが世界一だとだれでも言う。」 (杵淵直知書簡集『ヨーロッパの音を求めて』より)

X型背面構造

X型背面構造

20層以上のブナ材を高温高圧の状態で成型し、鉄並みの強度を持った背面構造に仕上げます。これは、鋳物でできたアイアン・フレームを補強し、ピアノ全体の構造物としての強度を保証するとともに、調整によって得られた良質の状態を、できる限り長く維持することにも役立っています。

スタインウェイとルーツを共にして密接な関係を持つグロトリアンには、音にこだわり華麗で情感のある音色で人々を魅了し続ける美しい楽器です。

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シュタイングレーバー&ゼーネ (Steingraeber & Sohne)
ゲオルグ・シュタイングレーバー

ゲオルグ・シュタイングレーバー

エドゥアルト・シュタイングレーバー

エドゥアルト・シュタイングレーバー

ブルクハルト・シュタイングレーバー

ブルクハルト・シュタイングレーバー

シュタイングレーバーのピアノメーカーとしての歴史は1820年代にチューリンゲンでピアノの製作に着手した時にさかのぼります。

2代目であるエドゥアルト・シュタイングレーバーが1852年に本拠地をバイロイトに移し、ウィーン式と英国式のアクションを両方取り入れた革命的な名器「Op.1」を完成させました!

そして30年の間に、バイエルン州で最も優秀なアップライト及びグランドピアノの工場に築き上げ、1867年以来シュタイングレーバー社のピアノは、国際的な賞を多数獲得し続けています。

シュタイングレーバーハウスは、1754年建築のロココ調宮殿に隣接する工房で1898年から楽器の製作が始まりました。1906年には、世界的な一流デザイナーたちにより、調度品としてのピアノがデザインされ始めました。シュタイングレーバー家の中でもゲオルク・シュタイングレーバーの創造性はずば抜けており、1900年末の彼のデザインは、発表以来、話題を集めたコンサートピアノE-272モデル(D-232モデル)、C-212モデル及びA-170モデルに引き継がれています。その後継者である弟ブルクハルトを追悼して、アップライトピアノ130モデルは誕生しました。ブルクハルトの娘リリー・シュタイングレーバーは音楽歴史学者の夫ハインツ・ヘルマンと共にワイマール共和政のもと経営に従事し、その甥のハインリヒ・シュミットが戦後及び復興期に活躍しました。

その後、彼の息子ウド・シュミット‐シュタイングレーバーが1980年より6代目として運営を行っております。 踏襲されているのは家系だけではありません。

国際的な賞、歴史ある本社所在地、世界的なアーティストたちの信頼に支えられながら、ワーグナー・リストゆかりのピアノとして伝統的手工芸製法によって製造を続けています。

シュタイングレーバー社では、1868年以来現在に至るまで特にアップライトピアノに於いては世界ベスト製造業者としての数(ル・モンド他)の賞を授与され続け、常にトップレベルの楽器の創造に力を注いでいます。

シュイタイングレーバーのグランドピアノを愛奏するフランツ・リスト

シュイタイングレーバーのグランドピアノを
愛奏するフランツ・リスト

~シュタイングレーバーとアーティストたち~

バイロイトには、世界各地からアーティストたちが訪れます。物理学者に実験室が欠かせないように、優れた楽器づくりには作曲家や演奏者との密接な関係が欠かせません。

当時、エドヴァルト・シュタイングレーバーは、シュタイングレーバーハウスに優れたアーティストたちを招き、彼らからピアノ製作に関する最新情報をいち早く得ました。

世界の音楽の中心地のひとつ、フェストシュピールの街でもあるバイロイトの幸運に恵まれた土地柄を生かして、この伝統は現在に至るまで続けられています。

今日、歴史あるシュタイングレーバーハウスでは、年間70 回あまりのコンサートをロココの広間、ピアニストと歌手のための北の広間、中庭の舞台、シュタイングレーバーギャラリー、グランドピアノ棟の室内楽ホールなどで開催し続けています。

ワーグナーからシュタイングレーバーに寄せられた献辞

ワーグナーからシュタイングレーバーに寄せられた献辞

ピアノテストというものは稀にしか行われず、恐るべきテストでもあります。アメリカの「ピアノブック」では、シュタイングレーバー社は、世界のトップメーカー4、5 社のうち、1A グループに認定されました。フランス(大概パリのオペラ・バスティーユで開催)では、テストの受賞者は質カテゴリー別に「CHOC」という評価を得ています。シュタイングレーバー社ほど、世界のトップメーカーの中にあって度々表彰されたピアノメーカーはありません。以下はテストに関する記事の抜粋です。

E-272 モデルに関して「ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュジーク誌」より
バッハやモーツァルト、ベートーヴェンの演奏に、今日、これ以上の楽器を見つけることは困難である

D-232 モデルに関して「ピアノブック」より ~ 新しい232 は並外れたモデルである!
C-212 モデルモデルが「205 CHOC」受賞。秀逸なモデル、きらびやかな高音域、純粋で温かな響き、微妙な音のニュアンスを巧みに表現、特有の音質。

A-170 モデルが「168 CHOC」受賞、「ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュジック誌」より
卓出したダイナミック性を備えた太くて豊かな音、類まれな楽器、翼を持ったグランドピアノ、一流メーカーの品質が一身に詰め込まれている1 台。

138 モデルが「CHOC 138」受賞
高品質の極致、価格に見合った傑作、明らかにアップライトピアノの王様。

130 モデルが「ディアパソン・ドール」及び「CHOC 130」受賞
絶妙な音質、微妙な音の出だしによる多彩な音色、温かくて美しい自然な広がり、実に巧妙なアクション、価格にマッチした性能。

~グランドピアノの構造~
当社の4 タイプのグランドピアノは150 年の歴史を経て磨き抜かれ、その後も改良を重ね、理想的でクリアな響き、充実した高音域、豊かな転調を可能にしてきました。そしてこれらのグランドピアノには寿命がありません。

全モデルで、ブリッジとヒッチピンの間のアクティブ弦が和音の高音域をふくよかにしています。さらにE-272 モデルとD-232、C-212 モデルには、高音部を補強するため、穴を開けたカポダストが取り付けてあります。

全て「くり貫き」鉄骨方式、かつ前方に支柱のない設計なので、 ウナコルダやダンパーペダル、現代音楽の奏法にも有利な構造です。象牙に代わる鉱物からなる白鍵と純黒檀材の黒鍵は吸湿性があり、滑ることなく鍵がすばやく反応し、演奏の楽しみが増します。白鍵と黒鍵のレバーの長さを計測時に調節することで、心地よいタッチが生まれます。
ご要望により、白鍵にマンモスの牙もご使用できます。

またオプションで、回転ハンマーナックル、新しいエネルギー伝達システムを搭載したフェニックスモデル、あらゆる気候に耐え得る炭素繊維の響板もご用意しております。

~アップライトピアノの構造~
グランドピアノの豊かな音色についての評価が、シュタイングレーバーのアップライトピアノにも当てはまるのには訳があります。

130 モデルは160 ㎝の小型グランドピアノに、138 モデルは180 ㎝のサロン用グランドピアノに音響上匹敵するもので、この市場では最大かつよく響き渡るトップクラスのピアノです。その幅広い転調、ひとつひとつの音質、音の透明感は、シュタイングレーバーのグランドピアノに一貫した理念を継承しています。

これらのピアノは多くの人に、卓越したレベルを測る一般的な物差しとみなされており、両モデルともパリのピアノテストにおいて20 年来絶えず優勝しています。

中でも最小のアップライトピアノ122 モデルは、共振する補助響板を用いた特別な構造によって非常に充実した音を持つアップライトピアノの古典といえます。

バイロイトのフェストシュピールハウスやミラノ・スカラ座、その他多くの音楽学校などで愛用されています。
当社では、プロの演奏家の方々に他社には見られない多種アクションをご用意しております。

  • シュタイングレーバー特有のアクションは、愛好家の方々にさらに演奏を楽しんでもらえるよう122、130 及び138 全てのモデルにおいてご用意いたしております。
  • プロの演奏家のためにグランドピアノ同様の深いレペティションが可能なSFM アクション(シュタイングレーバー強磁性アクション)も、122、130 及び138 全てのモデルにご用意しております。
  • 通常の3 本ペダル(ソステヌートペダル)を備えた、速いレペティションが可能な130 プロフェッショナル・スタジオ・アクションは、130PS モデルにおいてご利用になれます。
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ザウター(Sauter)

ザウターという名は日本ではあまり知られていませんが、その歴史はスタインウェイ、ベヒシュタインは言うに及ばず、ベーゼンドルファーよりも更に9年古い1819年に、ヨハン・グリムによって南ドイツのシュパイヒンゲンで創業されました。その歴史の長さはドイツ有数で、世界でも最も古い伝統を誇るピアノ製造会社の一つに数えられます。

創業者のヨハン・グリムは、元々優秀な家具職人でしたが、地元の教会の鍵盤楽器に感銘を受けた事が発端となり、ピアノ製作者を志すようになりました。そして彼は、音楽の都ウィーンに赴き、有名なピアノ製造業者であったシュトライヒャーの許で6年間に及ぶ修行しましたが、この頃にベートーヴェンとも知り合いであったと言われます。修行の後シュパイヒンゲンに戻り、1819年に創業し、スクエアピアノの製作を開始しました。当時この若いピアノ製造技術者の作った楽器は、高い品質が評判となって一躍その名を挙げました。

グリム夫妻には子供なかったため、音楽的にも職人としても天分に恵まれていた当時16歳の甥、カール・ザウターを見習い職人として採用し、ピアノ製造技術者として後継者に育て上げ、そしてグリムの死に伴って工房を引継ぎ、1846年にピアノ工場へ拡張させ、ピアノ製造技術の改良を次々と実現していきました。

その後、困難な時代に遭遇しながらも成長を続けたザウターは、1863年以降、それまでのスクエアピアノの製造から、アップライトピアノ、グランドピアノに移行しました。それ以降も、生産合理化と工場拡張に力を注ぎ、優秀な品質と改良されたピアノモデルを発表し、ザウターの名前をドイツ中に響きわたらせた。常に新しい技術と材料をいち早く取り入れ、またウィンナトーンを受け継ぐ、その美しい音色とデザインの新しいモデルは常に注目され、世界中に輸出されるまでになりました。

1993年には新工場を設立し、今年創立189周年を迎えるザウターの音作りの秘密は、グランドピアノに匹敵するタッチに匹敵すると言われる、ザウターが独自に開発したR2アクションの搭載や、サウンドボードの大型化により生まれる豊かな音量、また共鳴板をできる限り薄くし、かつ球状に膨らませる事(クラウン)によりボリュームある開放的でブリリアントな音を実現させた事にあります。

ザウターの音色は、伝統的なドイツピアノでありながら、ウィンナトーンの伝統も受け継いでおり、重厚でありながらも甘美さを併せ持つ、芳醇で魅力的な響きを持っています。

ザウターは設計やピアノの個体は基本的に同一でありながらも、一台一台に渋い音色、透明感のある音色、明るい音色等、それぞれ異なる印象を受ける程に多彩な個性が輝いている事も、ザウターが手工業ピアノの典型と言われている由縁です。

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ベーゼンドルファー(Bosendorfer)

スタインウェイ・ベヒシュタインと並んで、世界三大ピアノと呼ばれるベーゼンドルファーは、創業者イグナッツ・ベーゼンドルファーによって、1828年にウィーンで創業しました。

彼は、19歳の時から当時のウィーンの代表的なピアノ製造業者であったヨーゼフ・ブロードマンの徒弟として修行を経た後に、シューベルトの没年と同じ1828年にウィーン市長からピアノマイスターの名誉ある資格を与えられて創業に至りました。 そして僅か2年後、オーストリア皇帝より宮廷御用達ピアノ製造業の称号を受けます。

ベーゼンドルファーの重厚感がありながらも甘美なウィンナトーンを漂わせる魅力的な音色は、各国の皇室・貴族の御用達の名誉を受けた他、古今の多くの音楽家に愛用されて来ました。1869年には、当時オーストリア皇帝から明治天皇への献上品としてベーゼンドルファーの豪華なアートケース(グランドピアノ)が贈られました。

ベーゼンドルファーのピアノを一躍有名にし、こよなく愛用した人物に、フランツ・リストがいます。当時ウィーンにいた若き日のリストは、その演奏会で凄まじい演奏に耐え得るピアノが無く、たいがい1回の演奏会で演奏不能にしてしまうのが常で困り果てていた所、友人の紹介でベーゼンドルファーを試弾したところ、彼の凄まじい演奏に見事に耐えたばかりか、少しも音の狂いも見せず、早速演奏会に使用して大成功を収めた事から、一躍ベーゼンドルファーの名が広く知れ渡りました。

これまで、ベーゼンドルファーを愛用したピアニストには、歴史的な巨匠が名を連ねますが、地理柄もあって特にウィーンを中心に活躍した大家たちが多く見受けられます。

前述のリストをはじめ、その高弟エミール・フォン・ザウアー、イタリアの伝説的ピアニストでベーゼンドルファーに97鍵のインペリアルの開発を提唱し、その開発に深く関わったフェルッチョ・ブゾーニ、ドイツ出身で特にベートーヴェンの大家として名高いウィルヘルム・バックハウス、第2次世界大戦後のウィーンの"3羽烏"と呼ばれる代表的なピアニスト、フリードリッヒ・グルダ、ワルター・クリーン、バドゥラ・スコダ等の名前が挙げられます。

ベーゼンドルファーの特徴として、弦の高い張力に支えられた華麗な音色の他に、広い音域が挙げられます。鍵盤は通常は88鍵盤ですが、モデル225で92鍵盤、更にフルコンサートグランドピアノ、モデル290"インペリアル"では97鍵盤を誇ります。

これは、音楽の幅を広げるのみならず、弦の共鳴によって通常の最低音部の約2オクターヴ位の範囲の音色を美しくし、響きに充分な余裕を持たせる為と言われます。

またベーゼンドルファーは、他のピアノメーカーが大量生産に走る中にあって、創業から今日まで熟練した技術者による一貫した手作業にこだわり続けています。それは創業180年で総生産台数僅か5万台弱(ヤマハは100年で約600万台)ということからも窺い知ることができます。

その生産台数が少ない理由として、何度も繰りかえされる手作業の塗装と研磨によって作り出される美しいフレームをはじめ、1台のピアノを完成させるまでに800~1000時間を必要とし、その調律、整音と最終調整にほぼ同じくらいの時間を必要とするためと言われています。

ピアノのロールスロイスといわれる由縁です。

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プレイエル (Pleyel)
プレイエル 205(1841年 フランス製)

プレイエル 205
(1841年 フランス製)

フランスを代表する伝統的なブランドのひとつであるプレイエル・ピアノは、ハイドンの弟子としても知られる作曲家イグナッツ・プレイエルによって1807年にパリで創業され、ピアノ製造を始めました。

その後、1813年にイグナッツは、正式に彼の息子カミーユ・プレイエルにその経営権を譲り、その2代目を継いだカミーユのもとで飛躍的な事業の発展を遂げました。

また、彼は当時の幾多の著名な芸術家たちと親しく関わり、彼らの実践的な意見を基にピアノの改良を行いました。

1829年に初代イグナッツの健康状態の悪化を機にプレイエル親子は、財産の整理を始め、友人である当時の最も著名なピアニスト・作曲家であったフレデリック・カルクブレンナーと共に、ピアノの製造、販売、貸出を行うPleyel & Co.を設立しました。

プレイエル MODEL.C(1846年 フランス製)

プレイエル MODEL.C
(1946年 フランス製)

同時期にカミーユは、プレイエル社ホールである「サル・プレイエル」を開設して、彼の親しい友人フレデリック・ショパンをはじめ、歴史的音楽家達がこぞって演奏会を開いて、プレイエル・ピアノを使用して絶賛し、プレイエル社発展とその絶頂期と黄金時代をもたらす大きな原動力となりました。

とりわけ、ショパンが生涯プレイエル・ピアノを愛好した事実は音楽史上においても大変有名です。1855年にカミーユの後を継いでプレイエル社を支えたのは名経営者オーギュスト・ウォルフとその後、1887年に後継者となった義理の息子ギュスターヴ・リオンでした。彼らの時代にプレイエル社は最盛期を迎えました。

この頃、各種アートピアノの制作と2台ピアノ演奏用ピアノ“ダブルコンセール型”の制作、そして1927年に同社ショールームを完備した「サル・プレイエル」の新設と、順調に発展の道を歩みましたが、プレイエル社の危機と衰退は1928年7月19日に突如襲った「サル・プレイエル」の火災に始まり、翌年の金融大恐慌とその後の第二次世界大戦と戦後の混乱期を経て、1961年には、その前年に合併していたエラール社、ガヴォー社との3社合併を余儀なくされました。

その後、経営不振から、ついに1971年にドイツのシンメル社へ買収されましたが、旧プレイエル・ガヴォー社の関係者や職人達によるフランス政府への嘆願によって援助を得て、南仏プロヴァンス地方で新たにラモー”Rameau”のブランド名でピアノ製作は継続され、フランス・ピアノの伝統を保ち続けます。

その間、フランス国内で往年のプレイエルの名をとどめていたのは、パリの代表的な演奏会場であるサル・プレイエルの存在によってでしたが、1990年代に入ってフランス国内でフランス・ピアノの再興の気運が高まり、フランス政府からの援助も得て1995年にドイツ・シンメル社から商標を買い戻し、フランスに新生プレイエル社が発足して正式にその復活を果たしました。

2007年には、南フランスから最盛期に工場があったパリ郊外のサン・ドニに移転し、現在に至っています。

プレイエルを前に歓談するモナコのアルベルトⅠ世と作曲家ジュール・マスネ

プレイエルを前に歓談するモナコの
アルベルトⅠ世と作曲家ジュール・マスネ

・プレイエル・ピアノを愛用した歴史的音楽家たち
フレデリック・カルクブレンナー(プレイエル社役員兼共同経営者)、フレデリック・ショパン、シャルル・グノー、カミーユ・サン=サーンス、ジュール・マスネ、エドヴァルド・グリーグ、クロード・ドビュッシー、ガブリエル・フォーレ、リヒャルト・シュトラウス、マヌエル・デ・ファリャ、イゴール・ストラヴィンスキー、ジャック・イベール、アルテュール・オネゲル、フランシス・プーランク、アルフレッド・コルトー、ロベール・ロルタ、ロベール・カサドシュ、ギャビー・カサドシュ、マルグリット・ロン、クララ・ハスキル、アルトゥール・ルービンシュタイン、ヴラド・ペルルミュテール、サンソン・フランソワ 他。

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エラール (Erard)
エラールNo.33(1933年 フランス製)

エラールNo.33
(1933年 フランス製)

エラールの創始者である、セバスチャン・エラールは、1752年にラスブルグで生まれました。

彼は機械に対して興味を示し、建築学などを学んでいましたが16歳の時、父を亡くしたため、家族を養うために家具職人となりました。
しかし機械や機構に対して鋭い感性を持っていた彼は、たちまち家具職人では満足できず、パリへと旅立ちました。

パリでチェンバロ製作工房に入門した彼は、驚異的な技術力と向上心で、瞬く間に師匠の技術を超えてしまう結果となり、それを理由にクビにされてしまいました。

次に勤めたチェンバロ製作工房では、彼の圧倒的な技術力に目をつけたその師匠の目論見により、彼に自由に楽器を製作させて、師匠の名前で売り出す結果となりますが、実際に顧客から楽器の構造の詳細を聞かれた師匠が返答が出来ずに事実が露見した事で、逆にエラールの名前が一気に世間に広まりました。

エラール 183(1910年 フランス製)

エラール 183
(1910年 フランス製)

その後彼にはパトロンがついて工房を構える事になり、1777年に最初のピアノを発表したといわれていますが、彼の並外れた製作技術は、当時のパリのギルドの嫉妬を買い、ギルドから除外されてしまいました。当時ギルド(同業者組合)から外れることは、直接職を失う事を意味していました。

そこで、エラールはピアノ製作を続けるため、その卓抜した社交力を発揮して、時のフランス・ブルボン王朝のマリー・アントワネットに取り入って、首尾よく「宮廷御用達ピアノ製造業者」の絶大なお墨付きを得て、彼を除外したギルドと全く関係なく堂々と再びパリにピアノ工房を構えました。

この時期、多くのピアノをマリー・アントワネットのために製作しています。しかし、たちまちフランス革命が起こり、宮廷側の人物となっていたエラールも処刑の対象となって身の危険が迫りました。彼は直ちにパリを脱出してイギリスに渡りました。さらにロンドンでもピアノ製作の研究を続けました。

エラール183(1900年 フランス製)

エラール183
(1900年 フランス製)

その後、革命のほとぼりが冷めた1796年にパリに戻る頃には、エラールはイギリスでもピアノメーカーとして確固たる地位を築いており、名実共にヨーロッパ最高のピアノメーカーへと成長していきました。

セバスチャン・エラールはピアノ史上において、最も重要と言える発明をしており、特に「ダブル・エスケープメント・アクション機構」と「アグラフ機構」は最も代表的なものです。

とりわけ「ダブル・エスケープメント機構」はイギリス式アクションを大きく改良したもので、この機構により、それまでの「シングル・エスケープメント機構」では打鍵した鍵盤が完全に戻るまで次の打鍵が出来なかったものが、「ダブル・エスケープメント機構」では、打鍵した鍵盤が戻る前に次の打鍵が可能になった事により、敏速な連打奏法が可能となり、ピアノの発展と近代化に大きく貢献しました。

「アグラフ」はグランドピアノの高音部の音をきっちりと止め、音程を確かにする働きを持っています。残念ながら今はプレッシャーバーで弦を止める機構が主流となり、徐々に使われなくなってきていますが、特にベヒシュタインなどがこの「総アグラフ」構造で著名なメーカーでした。エラールは、他にも低音部にいち早く巻き線を使用したり、フランスで初めて木製のフレームの枠に金属の補強を入れるなど、新しい取り組みや発明にも柔軟に対応していきました。
エラールは、歴史的に著名な作曲家に好まれ、彼らの求めに応じる形でピアノを発展させた。 特にベートーヴェンは1800年代初頭頃に5オクターブ半のエラールのピアノを贈られ、「ヴァルトシュタイン」、「ピアノ協奏曲第3番」や「熱情」を作曲したとされます。

また、リストはそのキャリアの中で栄華を極めたパリ時代、当時世界最先端であったエラールピアノを最も好み、彼の華々しい活躍は常にエラールピアノと共にありました。

リストは当時のパリ・オペラ座において、「コンサートは私自身だ!」と言って、世界で始めて「ピアノ・リサイタル」というコンサート形式を創始したが、その時にももちろんエラールピアノで行われました。そして、当時世界一のピアノメーカーとなります。

その後、エラールの地位と名声と共にその繁栄は長く続きましたが、その後のアメリカやドイツに及ぶモダンピアノへの発展に対して保守的な立場を取ったフランス・ピアノの急先鋒であったエラールは、20世紀に入って徐々にアメリカやドイツのメーカーに水をあけられる結果となり、徐々に経営難へと陥り、世界大恐慌に端を発する1930年代の不況から第二次世界大戦へと突き進む時勢にあって、1959年にガヴォーと合併し、1961年にはプレイエルとも合併しますが、社名が「プレイエル・ガヴォー社」となり、ついに名前も消えてしまいました。しかし、最終的に1970年にはプレイエル・ガヴォーも倒産し、翌年には名門3ブランドはドイツのシンメル社に買い取られてしまいました。

しかし、旧プレイエル・ガヴォー社の関係者や職人達によるフランス政府への嘆願によって援助を得て、南仏プロヴァンス地方で新たにラモー"Rameau"のブランド名でピアノ製作は継続され、フランス・ピアノの伝統を保ち続けます。1994年にラモーが、プレイエル、エラール、ガヴォーを買い戻し、「フランスピアノ製造会社」と改称しました。その後、「PLAYEL&Co.」とし再改称して、往年のブランドが復活して、エラールのブランドで一時期生産が行われていましたが、現在は製造されていません。

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ガヴォー (Gaveau)
1913年サル・ガヴォーにて、コンサートグランドピアノモデルNO.5を弾くカミーユ・サン=サーンス指揮は若き日の巨匠ピエール・モントゥー

1913年サル・ガヴォーにて、コンサートグランドピアノモデルNO.5を弾く
カミーユ・サン=サーンス
指揮は若き日の巨匠ピエール・モントゥー

フランスを代表する3大ピアノに数えられるガヴォーは、創業者ヨーゼフ・ガブリエル・ガヴォーによって1847年にパリで創業されました。

彼は1824年にロワール河とシエル河の間に位置するロモランタンで生まれました。彼はパリのいくつかの工房で修行した後、1847年23歳の年にピアノ製作工房をパリのヴィネグリエ通りに開設して創業します。

彼は初期から、エラールピアノを手本にした質の高いアップライトピアノ製作を意図します。その頃エラールは、アップライトのアクションにおけるエスケープメント機能を改良している最中でしたが、彼はこれをもとに、"ガヴォー・アクション"と呼ばれる独自のアクションを開発しました。

彼の6人の息子もピアノ製作に情熱を抱き会社に入りました。彼の評判は高まり、セヴゥラン通りに小さな工場を設立するまでになります。そこで1890年頃すでに、200人の職人を擁して、年間1500台のピアノが製造されるまでに発展し、1893年彼が70歳目前の高齢となり、息子ガブリエル、ウジェーヌとエティエンヌに継承しました。

1896年にガヴォーは更に発展しパリ近くのフォントネイに近代的な新工場を構えて、300人の職人を擁して年間2000台のピアノを製造するようになります。この工場は殆んどがパリから呼ばれた職人で成り立っていました。会社経営に力を入れたエティエンヌは、会社の本拠地をパリの中心にあるボエティエ通りに移転させる方針を打ち出して、1908年にパリを代表するコンサートホールの一つ"サル・ガヴォー(Salle Gaveau)"を建設します。ここでは、次々と偉大なピアニスト達が来演してガヴォーのコンサートグランドピアノを演奏し、ガヴォー・ピアノの最高の宣伝の場として広くその名声を伝える役割を果たしました。

特に1920~1930年代には、パリのアパルトマンに適した全長130~140cm代の超ベビーグランドピアノが流行しプレイエルやエラールと競ってこの時代の名品ピアノが製作され、パリジャンたちに持てはやされました。特に、当時のモダニズムの影響を受けたデザインが持てはやされ、太陽を形取った寄せ木細工の装飾とエレガントなケースは、メーカーの評判を一層高めました。

しかし、1911年兄弟と仲たがいをしたガブリエルは、独自に"ガブリエル・ガヴォー社(Gabriel Gaveau)"を創業し、"芸術的なピアノ(Piano d'arte)"をスローガンに掲げて、彼のアイデアによる新しいグランドピアノの製作を行いました。彼は凝ったデザインの外装を施したグランドピアノを製作し、独自のスタイルを打ち出した。更に1930年頃、下請け会社の一つであったMAG(Marcel et Andr? Gaveau)が、質が高く値段の安いアップライトピアノを製造していました。

1939年に第二次世界大戦が勃発した頃、ガヴォーは95000番目のピアノを製造したころでしたがエティエンヌは1943年に他界し、息子のマルセルとアンドレが困難の中で会社を継承しました。しかし、戦前戦後における20世紀後半のフランス・ピアノの衰退を止める事はできず、ついに1960年にエラールと合併し"ガヴォー・エラール社"となり、さらに1961年にはプレイエルも加わり、3社が合併してピアノ製作を続けましたが1970年に倒産し、1971年にはドイツのピアノメーカー・シンメル社がそれらの社名を買収されました。

しかし、旧プレイエル・ガヴォー社の関係者や技術者達がフランス政府に対して、伝統あるフランス・ピアノ製造の存続を嘆願し、の嘆願によって援助を得て、南仏プロヴァンス地方で新たにラモー"Rameau"のブランド名でピアノ製作は継続され、フランス・ピアノの伝統を保ち続けます。

1994年にラモーが、プレイエル、エラール、ガヴォーを買い戻し、「フランスピアノ製造会社」と改称しました。その後、「PLAYEL&Co.」とし再改称して、往年のブランドが復活して、ガヴォーのブランドでも一時期生産が行われていましたが、現在は生産されていません。

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ペトロフ (Petrof)
アントニン・ペトロフ

アントニン・ペトロフ

チェコには数世紀にわたる楽器作りの伝統があります。その中心となるピアノは、19世紀初めにボヘミアでの生産が始まりました。

チェコ最大のピアノメーカーとなったアントニン・ペトロフのピアノ第一号が誕生したのが1864年の事です。

しかしピアノ作りの基礎を築いたのはアントニンの父、ヤン・ペトロフでした。鍛冶屋であった彼は貧弱な工具と乏しい材料で初めての鍵盤楽器を製作しています。

ハーモニアで成功を収めたペトロフは、1880年ピアノの生産を開始しました。10年後に三階建の社屋に移転、94年からは輸出もスタートしました。

翌年にはウィーン、ハンガリーのティミソーラに倉庫を開設しています。

ペトロフ工場

ペトロフ工場

50周年を迎えた1914年には、従業員は280名に達しました。

折しも第一次世界大戦が勃発、戦後チェコは数百年の悲願であった独立を果たして、チェコスロヴァキア共和国が建国し、そこからの20年間は、中欧の文化圏の一大拠点としてミュシャなどの数多くの芸術家立が活躍し、芸術における一大ユートピアを形成しました。ペトロフもそんな環境の下で優れたピアノを作り続け、27年から29年の間に史上最高の業績を達成しました。

そして、28年にはアメリカのスタインウェイ共々ロンドンに支店を構え、29年には従業員は460名を数えるまでに成長しました。 この時期ペトロフの技術は著しい進歩を見せ、28年に″カラーピアノ″が設計されました。

32年にはエレクトロ・アコースティックピアノ″ネオ・ベヒシュタイン″の製作を手がけています。70年目の34年に、ペトロフは5万台目のピアノを出荷しましたが、その後の第二次世界大戦で生産は中断され、43年にはわずかに80名の従業員が残るのみとなりました。

そして、第二次世界大戦後の49年、チェコスロヴァキアが共産化して社会主義国となり、ピアノ/オルガン国営企業が創設され、ペトロフの他、フォルスター、ショルツ、レスラー、タリボー、コッホ、コールセルト、ホフマン、チェルニー、リーガー・クロスなどのピアノメーカー、オルガンメーカー数社か統合されました。

以後べ卜ロフの生産は、64年……10万台目、74年……20万台目、79年……30万台目と84年……40万台目と順調に伸び続けています。

1989年のソビエト連邦崩壊によって新たな展開が訪れました。チェコも有名な無血のビロード革命により民主化を成し遂げ、再びペトロフ一族の手に経営権が戻り、品質も飛躍的に向上する事になります。とりわけ、CNC旋盤などを導入したことで、より精度の高い工作を可能にし、全てのモデルにレンナーアクション&ハンマー(Renner-PETROF)を導入するする事でドイツ製などと遜色のない品質を実現しました。

クラフトマンシップの活きるピアノづくりとペトロフの豊かで優しくメロディアスな音色は世界の市場で認められ成功し続けています。

~受賞歴~
ペトロフの品質は世界各国の博覧会で、数々の栄誉に輝く実績が証明しています。
1958年以降の受賞は次の通りです。

58年 ブリュツセルの世界博覧会でペトロフ・モデルIが金賞他受賞
74年 スペインの品質競技会で受賞
75年 ブリュッセルのヨーロッパ品質競技会で受賞
78年 ブルーノ国際貿易博覧会でペトロフ・モデルI(手工モデル)が金賞受賞

~輸出状況~
ペトロフピアノは生産量の4分の1が国内で消費され、4分の3は外国へ出荷されます。主な輸出先はロシアおよびヨーロッパ諸国、アメリカであるが、遠くオーストラリア、ニュージーランド、シンガポール、香港、タイ、日本、カナリー諸島、カナダ、ベネズエラなど、世界50ヶ国にのぼります。

ペトロフ (Petrof)

~特徴~
ペトロフの持つ透明で純度高く澄みきった音色は、ボヘミアの大地が長い年月をかけて育んだ音色です。

特に弱いタッチにおいても、その美しい魅力的な音色を発揮します。

レンナー・アクション&ハンマー、およびレスロー・ワイヤーにより、演奏時に優れたコントロール性を発揮します。

ペトロフ (Petrof)

ヨーロッパのクラフトマンシップが活きる手作業工程の多いピアノづくりには、 伝統的に、音質に優れた選りすぐりの天然乾燥木材を用います。

現地で約数年の自然乾燥を行い、仕上げに一ヶ月間乾燥室に入れられ、含水率は7%まで下げられます。なお、乾燥室内50度C以下に保たれます。これにより、ピアノに適した木材となります。

ペトロフ (Petrof)

ペトロフの側板には、べーゼンドルファーと同じく板に切り込みを入れて曲げて製作されます。

この製法により、木材を緊張させにくく、木の響きを生かす特徴を持っています。

これは、ペトロフの持つ透明で澄み切った音色を生み出す秘密でもあります。

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ザイラー (Seiler)
エドワード・ザイラー

エドワード・ザイラー

1849年、ザイラー社は当時のドイツ・リークニッツでエドワード・ザイラーによって創業されました。

ピアノ演奏にも秀でていたザイラーは、その卓抜した技術と共に、独自のピアノ開発を目指します。彼の造るピアノは、例えようも無い透明で明るい音色を持っており、ザイラーピアノの持ち味として、今日まで継承される事になりました。

1872年、ザイラー・ピアノはモスクワの楽器品評会で、金メダルを受賞したのを皮切りに、世界中の博覧会や展示会(ウィーン・シカゴ・ベルリン・メルボルンなど)で数々の賞やメダルを獲得し、会社は順調に発展をしました。

1875年に、エドワード・ザイラーの死後、息子のヨハネス・ザイラーが父の遺志を受け、当時従業員120人を擁するザイラー社を引き継ぎました。

ザイラーの賞歴

ザイラーの賞歴

1919年、イタリアのマルガリータ皇太后によって、イタリア王室御用達ピアノ業者に指定されました。また、ドイツの女帝アウグスタ・ヴィクトリア、及びその他のヨーロッパの王室の御用達にも指定されました。

1923年ヨハネスの娘婿のアントン・ザイラー・デューツが事業を引き継ぎ、発展し続けたザイラーピアノはウィーン、アムステルダム、メルボルン、シカゴ、ベルリン、ミラノ、東京などで、数々の賞を受賞し続け、その名声は世界中に知れ渡りました。

この頃には、ドイツ東部で最大のピアノ工場になりました。それにより、多くの有名なピアニストや音楽家達(エンリコ・カルーソー、アルトゥール・ニキシュ、ルジェーロ・レオンカヴァッロなど)が、こぞってザイラー・ピアノを演奏し、世界の多くのコンサートホールでもザイラー・ピアノが使用されるようになり、順調に発展しました。

ザイラー工場

ザイラー工場

しかし第二次世界大戦によって工場と共に故郷をも失い、1945年の終戦後、4代目シュテファン・ザイラーは再興に当り、まずデンマークに会社を再建し、伝統にそったピアノの製造を再開し、やがて1957年に再びドイツに戻り、1961年にはバイエルン州のキッツィンゲン市に新工場を構えました。

1999年、ザイラー社は創立150周年を迎えました。およそ1万平方メートルの生産面積に、最新の最新のテクノロジーを駆使した設備の工場で、世界最高水準のグランドとアップライトピアノを製造しています。

2010年に韓国のサミック社に買収され運営されています。

ザイラー・ピアノは、最高品質の無垢材と化粧用の張り板材だけを使用し、工芸技術の長い伝統の息づく町、フランケン地方のキッツィンゲン市だけに製作地を限っているのも、ザイラー社のこだわりのひとつであり、160年もの長きにわたり、これまで製造したピアノは16万台あまりと少ないのも、最高品質にこだわってきた結果であると言えるでしょう。

ザイラー・ピアノには、「ドイツピアノ品質保証シール」がついています。ザイラーが誇りにするこの保証シールは、中立な第3者機関である「ドイツピアノ品質保証表記協会(RAL)」から授けられたもので、ザイラー社はスタジオモデルのアップライトからコンサート用グランドピアノに至るまで、すべての楽器に、この「品質保証シール」をつけることを認められた唯一のピアノメーカーです。

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フォイリッヒ (Feurich)
ユリウス・フォイリッヒ

ユリウス・フォイリッヒ

1851年、ユリウス・フォイリッヒによって、ドイツのライプツィヒで創業しました。彼の家は代々ピアノ製作一家で、彼の祖父や父も熟練したピアノ技術者でした。

バッハやメンデルスゾーンとも縁の深い音楽の都ライプツィヒという土地柄もあって、たちまちフォイリッヒのピアノは評判を呼び、目覚しく発展を遂げていきます。

その優れた音楽性と優美なデザインはヨーロッパ諸国で名声を博し、特に当時の王侯貴族の社会で特に高い評価を受けました。

そして20世紀に入り、フォイリッヒのピアノの音色の美しさと音量の豊かさはピアニストの期待に見事に応え、彼等に限りない成功をもたらし、フォイリッヒ・ピアノは優れたアーティスト達の指定を受けました。

フォイリッヒ工場

フォイリッヒ工場

1911年には、ライプツィヒに新しい工場を建設し、年間アップライト1200台、グランド600台を生産する規模にまで発展しました。大正時代、フォイリッヒのピアノは日本にも輸入されていました。

第2次世界大戦で工場を失いましたが、戦後1953年にW.HOFFMANN(ホフマンピアノ)吸収し、1959年からドイツ・ラングラウ(南ドイツ・バイエルン州)に移り、現代的なスタイルのものから、バロック・ロココ・シャラトン風といった種々の歴史的なスタイルのピアノも製作され、現在まで約76000台のピアノを製造してきました。

1990年に一旦C・BECHSTEINグループに買収されますが、フォイリッヒ・ピアノのブランドと営業権を買い戻し、1993年からフォイリッヒは完全なファミリー企業となりました。

また95年には新しいビルが完成し、ここから世界中へ輸出されています。

日本語カタログ

日本語カタログ

フランスで最も権威のあるディアパソンは、「フォイリッヒのグランドピアノは、ひとつひとつの音符を楽しめる素晴らしいピアノだ」と絶賛しています。

またフォイリッヒは、ベルリンのシャウシュピールハウス(ドイツでももっと有名なコンサートホール)をはじめ、ドイツ各地のホールに納められています。

現在もドイツにおいては知名度も高く人気あるピアノです。

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シンメル (Schimmel)
シンメル歴代代表

シンメル歴代代表

現在ドイツ最大のピアノメーカーの一つで、最も近代的で品質の優れた楽器として定評があり、これまで日本にも数多く輸入されている。120年以上の輝かしい長い伝統を持っているこのピアノメーカーは、1885年に創業者ウィルヘルム・シンメルによって創業されました。

彼はピアノ造りの本場だったライプツィヒのピアノ技術者の息子として生まれ、16歳からザクセン(現在のザクセン州)のキャビネットメーカーに勤め、22歳からはスティッチェル・ピアノ工場で見習い工としてスタートしました。シンメル・ピアノの家具的センスが非常に優れ象嵌技術には定評があるのは、この由縁でしょう。

1885年の5月2日、彼が31歳の時に念願の独立を果し、1891年にライプツィヒの郊外にシンメル社工場を建設し、それから約3年後の1894年5月1日には、早くも製造番号1000台目のピアノを出荷し、1895年にはライプツィヒ・リュードニッツに会社組織として工場を建て、従業員は30名程になりました。

1897年にはライプツィヒ・スターリッツの新たに設立した工場へ移転。この頃にはアメリカ、イタリア、ロシア等の国々へ輸出され、1898年には、製造台数2500台という驚異的な急成長を成し遂げました。

1899年にはワイマール王室、1909年にはルーマニア王室御用達の栄誉を受け、更に各地の博覧会では幾多の金賞を受け続け、会社は飛躍的に成長を続け、ライプツィヒを代表するメーカーになりましたが、1927年ウィルヘルム・シンメルは引退し、2代目は同じ名前の息子、ウィルヘルム・アルノ・シンメルが引き継ぎ、1930年には、小型アップライトピアノを開発し、1931年ブラウンシュヴァイク(旧西ドイツ)へ移転しました。

シンメル社は第1次及び第2次世界大戦で被害を被りながらも着実に生産数を伸ばし続け、ドイツで製造されたアップライトピアノとして、1958年には世界でNO.1の売上げを記録しました。

シンメル工場 1896年

シンメル工場 1896年

1961年、3代目ニコラウス・シンメルが継承し1966年には町の南側にある産業地帯に工場を設立し業務を拡大。その後も多くの需要に対応するため、1975年には二つ目の工場を新築して、ついにシンメル社は1980年頃には年間の製造台数が一万台を超えたと言われます。

また、1970年から1993年まで、フランスのガヴォー・エラール協会との提携で、かつてのフランスの名器であるプレイエル(1807年創業)、ガヴォー(1847年創業)、そしてエラール(1780年創業)のブランド名でOEM生産を行なっていた事でも広く知られています。

シンメル社は創業当初より一貫して「品質第一主義」をモットーに各種の素晴しいピアノを作り続け、かつてそのカタログに「デザイン・エクイジット」と記載されていたように、1台1台に行き届いた入念な仕上げ、格調あるデザイン、豊かな音色を持ち、誠に優美で精巧な楽器を作り続けており、パリ・ルモンド社ピアノコンクールのミドルクラスで優勝しています。

シンメルはドイツ的な正当な音色を持ち、低音から高音の音量も小型のボディーからは想像できないほど均質に響く優れたピアノで、音色・タッチともに綺麗で弾きやすく、外装もスマートで洗練されています。更に教育用としてペダルが特殊で、メトロノームその他を内蔵したピアノ、また斬新で独創的なデザインの各種アートピアノも積極的に製作されています。現在は規模を縮小し、創業家が本来の姿に戻し運営しています。

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ボストン (Boston Design by Steinway & Sons)

世界最高のピアノと謳われるスタインウェイ社が、新たに世に送り出した"ボストンピアノ"は、その長い歴史を通じて培った高い音楽的水準と最新ハイテクノロジーを駆使した、研究開発の融合から誕生したピアノで、各部の質の高い材料をふんだんに用いています。

スタインウェイが妥協の無い手作りと最高品質の材料を使用した最高級品とすれば、そのDNAを持った高品質の量産モデルと言え、おなじくスタインウェイ社の設計のもう一つのブランド、エセックスと共に、ボストンは、正にスタインウェイのエッセンスが盛り込まれたピアノと言えるでしょう。

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レーニッシュ(ronisch)
カール・レーニッシュ

カール・レーニッシュ

レーニッシュピアノの創始者、カール・レーニッシュは若い頃より、多くのピアノ職人の下でピアノの製作技術を学び、職人としての腕を磨きました。

1845年、独立し、ヨーロッパの音楽都市、ドレスデンに工房を構えピアノ製造を開始しました。

当時のドレスデンはリヒャルト・ワグナーがドレスデン宮廷指揮者となり、音楽の都として活気を呈し、多くの音楽家たちが集まるところとなりました。

当然彼等はレーニッシュピアノを弾き、その安定した品質と芸術性の高さを評価し、国内に於てレーニッシュの名声は広まり、生産台数は着々と伸びていきました。

レーニッシュ工場全景

レーニッシュ工場全景

レーニッシュ工場内風景1990年頃

レーニッシュ工場内風景1990年頃

又、早くから諸外国にも輸出を開始。世界各地での博覧会、国際フェアに出品し、「ゴールドメダル」「最優秀賞」を獲得。世界中にレーニッシュブランドは定着して行きました。

そして2009年、ヨーロッパ老舗ピアノメーカー「ブリュートナー社」との合併して、Carl Ronisch Pianofortemanufaktur社を創立し、 最新設備の新工場がライプツィヒに完成しました。

誇り高き音楽の街、ライプツィヒにおいて、その名の通り市街には音楽ゆかりの場所が数多くあります。

音楽の伝統は過去のものとなることなく、それらの場所では現在でも絶えず音楽が奏でられています。

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スタインベルク(Wilh.Steinberg)

ドイツ・テューリンゲンにおいて1877年に、アドルフ・ゲイヤーにより、ウィルヘルム・スタインベルグピアノは創業されました。

スタインベルグ社は創立以来、東西冷戦の時代を経て、135年にわたって製造における伝統と経験を今に伝えており、その品質と魅力的なデザインは、スタインベルグ社の成功と発展を支え、その独特の音色の品質には、根強い愛好者を持っています。

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シュルツ・ポールマン(Schulze Pollmann)

シュルツ・ポールマンは、イタリアへ移住した2人のドイツピアノ技術者よって1928年に創業しました。設立者の一人のポールマンは、はじめ家具職人でしたが、ピアノ技術者を目指し、最初ハンブルクで、次いでバーメンのイバッハ社で、そしてスタンウェイ社でも長年修行を行いました。

1923年イタリア・トリノへ移住しました。また同じ時期に、もう一人のシュルツはドイツからイタリア北部ボルツァーノへ移住して来ました。そして1928年の創業を迎えます。

そしてポールマンによって1942年まで経営されました。その後は息子のハンスに受け継がれ、現在、ヨーロッパの主要なピアノメーカーの一つに数えられるまでになりました。

近年、そのアップライトピアノとグランドピアノの増加する需要を満たすために増資を行って工場を新設し、かねてからの計画を実現しました。 そして従来の職人の高度な技術に加えて、高度なコンピューター制御により、生産工程のすべての段階で正確に管理されています。

その特徴は、ドイツの伝統を受け継いだことによる、優れた耐久性を持ちながら、イタリアが持つ芳醇な音色を持っているという、双方の伝統を尊重し、そのブレンドに成功している事に特筆されましょう。

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リーガー・クロス(Rieger-Kross)
リーガー・クロス

リーガー・クロス社は、プラハ郊外のイフラヴァで1871年に設立し、熟練したピアノマイスター、ヨゼフ・ブロールウェック、そして優秀なピアノ設計者ミロスラフ・タウチマンによって創業しました。

第二次世界大戦後、社会主義政権のもと、国有楽器会社となり、その中にはホフマンをはじめ、ペトロフ、フォルスター、ショルツ、レスラー、タリボール、リーガークロスなどオルガンやピアノメーカー数社が統合されました。

カール・レーニッシュ

その後1989年のソ連邦の崩壊に端を発する民主化よって伝統が復活し、現代的な精度の高い工作機などの使用も可能になり、またレンナーアクションなどの従来伝統的に使用していたドイツのメーカーの部品を使用することが出来るようになりました。

このようにしてボヘミアのピアノの伝統は見事に甦ったのです。

現在、リーガークロスピアノはボヘミア・ピアノ社によって製造されています。かつてのリーガークロス社は今はパイプオルガン専門メーカーとなっています。

ボヘミアピアノ社は商標権と設計を権利者であるリーガークロス社からライセンス契約しており、年間約3000台が生産され、そのうちの97%が輸出が占め、日本をはじめ、カナダ・アメリカ等へ送り出されています。

ピアノの製作には、伝統的に製作過程の1から10までをひとりのマイスターの手によって完成させております。

ピアノの部材の材質におきましても、ピアノの命と言っても過言でない響板にはボヘミアンスプルースを使用。この響板を使うことにより古い伝統様式を重んじる中央ヨーロッパを髣髴させる粒がそろった立ち上がりのよい透明感のある音色を奏でますさらに鍵盤や響棒にも同じ部材を使っています。

駒・上面・支柱・ペダル天秤は強度と音伝達に優れたブナを使用。中低音は音律の保持を良好にし、澄んだ音色を保持させる総アグラフ、次高音、高音は倍音を豊かにし美しく響かせるためのアリコート方式さらにカットブリッジを併用し一層の倍音の豊かさを実現しています。

また、アップライトピアノは全音域総アグラフを使用しています。ハンマー・アクションはレンナーを使用し、すべてカエデとシデの木材を適正にバランスよく使い分けられています。

弦は豊かな響きと強靭な耐久力のドイツレスロー社製ミュージックワイヤー*キャスターは真鍮*を使用。

塗装は強度と透明度が高いポリエステル鏡面仕上げです。

このようにすべてにおいてこだわりをもって作られたピアノが名器リーガークロスなのです。

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ホフマン(W.Hoffmann)

W.ホフマンは、南ドイツのプフォフェルトにて1893年に創業し、当時よりドイツでもよく知られたメーカーのひとつとなりました。後に第二次世界大戦後、ドイツの名門メーカー、ユリウス・フォイリッヒ社が買収し、ラングラウに製造拠点を移し年間500台のピアノを生産され、主にドイツ国内で愛用されていました。

その後1992年に名門ベヒシュタイン社が買収し、一旦チェコのペトロフ社でOEM生産されましたが、ベヒシュタイン社が同じくチェコのピアノメーカー、ボヘミア社を買収し、「ベヒシュタイン・ヨーロッパ新工場」として生産されています。

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エセックス(Essex)

世界のピアノの代名詞”と謳われるスタインウェイ社が、その設計思想に現代テクノロジーを駆使した研究開発を融合させて、全く新しいピアノを誕生させたピアノが“スタインウェイの設計による”ボストンピアノならびにエセックスピアノです。ボストンピアノそしてエセックスピアノは、スタインウェイ“デザイン(設計)”のピアノとして、それぞれの特長をもって、全ての方々のご要望に幅広くお応えします。

エセックスピアノはスタインウェイが培ったピアノづくりの伝統と現代テクノロジーを駆使した研究開発との融合から誕生。固有の設計、大規模な生産システム、慎重に考慮した生産環境などにより、高い品質を保ちながら、以前では考えられなかった価格帯を実現させました。音楽そしてその才能の開花の歓びを享受する機会はあらゆる方々のものと信じるスタインウェイにとって、大きな喜びとなりました。

そしてエセックスピアノのもう一つの特徴は、その姿の美しさとデザイン・バラエティーの豊かさです。

例えば英国、フランス、イタリアの伝統的あるいはカントリースタイルの各モデル、アカンサス葉飾りを施した猫脚が優美な“クイーン・アン”モデル、端正で存在感のある“エンパイア・ステューディオ”、1900年に初めてつくられたスタインウェイのグランドピアノと同じ伝統的デザインの“クラシック”モデルなど、それぞれのデザインから象徴的に命名されたいくつものモデルがあります。著名な家具デザイナー、ウィリアム・フェイバー氏とのコラボレーションにより、エセックスピアノはピアノのインテリア性にもこだわりました。

伝統的あるいはモダン、装飾的あるいはシンプルないくつものスタイル、印象的な木地と高級感溢れる仕上げ、またウォルナット、サペリ・マホガニー、チェリーなどいずれも厳選した木地のヴァリエーションがあり、仕上げも艶出し、艶消しあるいは半艶などバラエティー豊かに取り揃えられ、ライフスタイルやインテリアに合わせて、お好みの一台をお選びいただけます。

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タローネ(Tallone)

創業者タローネは1895年北イタリアで、画家の父、詩人の母のもと9人兄弟で育った。タローネは外国製ピアノを取扱う店で、常に何故イタリアのピアノがないのかと疑問を抱き、それがイタリアに世界一のピアノをもたらすという信念への直接的な要因となり、ドイツの名門ブリュートナー社へ修行を行いました。次いでベヒシュタインで勉強しますが、そこには自分の求める音はなかったといいます。タローネは、今まで聴いたことのない音色を求めて、イタリアに戻り、タローネピアノの製造を始めます。

やがて、タローネは、世界的ピアニストとなるミケランジェリの出会います。ミケランジェリは学生の頃に工房に遊びに行き、そのときミケランジェリの演奏にタローネが感銘を受け、彼の演奏会は全て自分が調律すると申し出た事に始まります。この出会いはタローネのピアノ製作にも大きく影響し、世界を回る専属調律師タローネは共に世界のトップに立つことになりました。

やがて、ヤマハが「世界一のコンサートグランドの開発」を手がけたとき、当時世界一のピアノ技術者タローネが招かれ、ヤマハに協力する事になったのは有名です。

タローネのピアノは総生産台数が約500台程しかなく、しかもタローネは値段はあまり気にせず、気に入った人にしかピアノを販売なかったといわれています。1982年タローネが亡くなると工場も閉鎖してしまいました。しかしながら、そのピアノが余りにすばらしく、所有者がほとんど手放さないために一般市場に出回ることはほとんどなく、“幻の逸品”として知られています。

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ボールドウィン(Baldwin)

ボールドウィンは、理想とする音を追求し続ける、アメリカのピアノメーカーで、音楽教師であったD.H.ボールドウィンによって1873年に創業しました。当初はピアノ販売を中心に行い、1891年からピアノ製作を開始しました。後に彼は、「普通の人々が真面目に働き、理想を追求した結果として生み出されたもの」であると、自らのメーカーのピアノを評しました。

ところが1899年、ボールドウィンが亡くなると、敬虔なキリスト教徒であった彼は、その資産を全て教会に寄付してしまったのです。

この時ピアノ会社は倒産の危機に瀕しました。しかし経理を担当していたルシアン・ウルシンが、ジョージ・アームストロングと共に会社を買い取り、存続へと至ったのです。

ボールドウィンピアノは1900年パリ万国博覧会でグランプリを受賞し、1920年代にはアメリカの有名なメーカーとなりました。現在も世界中で美しい音色の楽器として、世界中の歴代の一流ピアニスト達から支持を受け、愛用され続けています。

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ウーリッツァー(Wuritzer)

ウーリッツァーの創設者、ルドルフ・ウーリッツァーは、1829年ドイツ北西部のサクソニーに生まれ、実家は楽器の製造販売ですでに広く知られていました。彼は1853年24歳のときにアメリカへ移住し、1856年、THE WURLITZER COMPANY を創設しました。

初期の頃はドイツにから楽器を輸入し販売していましたが、1880年アメリカにおいてピアノの自社製作品を完成させ、1896年にはコイン投入式の電気ピアノ 『 Tonophon 』 を製作、そこからウーリッツァーの名前は世に広まっていきました。

その後、ピアノ製造のみならず、オルガン、ジュークボックス、エレクトリックピアノなど、広範囲に事業を拡大し、世界的な一大メーカーとして君臨しています。

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キンボール(Kmball)

キンボールは1857年にアメリカで創業された、世界的に有名な鍵盤楽器のメーカーです。
ピアノ、パイプオルガンの製造で長い歴史を持っています。このキンボールは「ジェスパーコーポレーション」 というインディアナ州のアメリカ屈指の巨大テレビステレオなどのキャビネットメーカーの傘下で、優先的にピアノ用の木材が入手でき、1970年代頃まで、主にアメリカの一般家庭用のピアノを大量に生産していました。かつて、ウィーンの名器ベーゼンドルファーを傘下におさめていたことでも広く知られています。

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ブロードウッド(John Broadwood&Sons)

ジョン・ブロードウッドは、ピアノのあらゆる機構において改革をし、近代のピアノを完成させたメーカーであり、その歴史はイギリスは言うに及ばず、ヨーロッパで最古の伝統を誇っています。

ブロードウッドのルーツは、彼がロンドンに来る前からロンドンにあったチェンバロメーカーのシュディでした。創始者シュディはスイス生まれの家具職人でしたが、1718年にロンドンを訪れ、チェンバロメーカーで10年以上の修行をし、その特殊な技術を覚えました。そして後に、ブロードウッド&サンズが事務所および展示場を置く、グレード・プルテニ街の33番地に工場を建てたのです。

ジョン=ブロードウッドは、1732年にスコットランドで生まれ、1752年にロンドンに移り住み、彼はシュディの下で働くこととなりました。彼の才能に目をつけたシュディが娘と結婚させ、ブロードウッド&サンズが誕生しました。さらに1727年からはその高い技術の歴史により、イギリス王室ご用達となり、200年以上もの間、その技術を維持し続けているのです。

ブロードウッドはピアノの機構をピアノ音楽の歴史と共に改良し、とりわけそれまで使われていた膝ペダルから現在の足ペダルへと変更したことや、木製フレームに金属バーで補強して特許を得た事が知られ、ピアノを現在の形にしたのはブロードウッドといっても過言ではありません。

ブロードウッドは、才能ある著名な作曲家にピアノを提供しており、ベートーヴェンを始め、ショパン、リストなど、その後の名だたる作曲家たちはブロードウッドを愛用しています。その中でも有名なのはベートーヴェンで、ハンマークラヴィーアの第4楽章及び、後期ピアノソナタ109番、110番、111番はブロードウッドで作曲されています。また、ショパンも晩年のイギリス旅行の際、ブロードウッドのピアノを弾き、絶賛しました。

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● クナーベ (Wm.Knabe & Co.)
創業者 ウィリアム・クナーベ

創業者 ウィリアム・クナーベ

アメリカ国歌“星条旗よ永遠なれ”が作曲されたスクエアピアノ

アメリカ国歌“星条旗よ永遠なれ”が作曲されたスクエアピアノ

クナーベは人間の声に近いシンギングトーンを持ち、アメリカのピアノ中で最も美しい音色のピアノとして、世界的な名器として知られている。創業者ウィリアム・クナーベは1803年ドイツ・クロイツベルクに生まれ、彼は大学まで行き、優秀な成績を修めていた。やがて彼はピアノの製作技術を志し、当時のマイスター達の許で修業して腕を磨いた。そして彼が30歳の時にアメリカ南部のボルティモアに移住し、1837年にガエールという共同経営者と共に、ピアノメーカー「クナーベ&ガエール」を創業したのである。この草創期に製作されたスクエアピアノで、アメリカ国歌としてあまりに有名な「星条旗よ永遠なれ」が作曲された。

1854年にガエールが引退してから、クナーベは単独で持ち前の研究と努力により事業を拡大し、1861年の南北戦争の頃には南部アメリカを代表する大メーカーとなった。しかし、南北戦争でアメリカは荒廃して疲弊し、ピアノどころではなくなってしまい、クナーベは巨大な工場と多数の在庫と社員を抱え、失意の中で初代ウィリアム・クナーベは引退した。

その後を受継いだのは2人の息子だった。彼らが最初に行ったのは、大量の在庫の処分と社員の給料の工面であった。兄は実直でおとなしい性格、それに対し、弟は挑戦的で積極的な性格だった。弟は銀行に出向き、「自分たちの担保はクナーベという名前だけだ」と言ってのけ、巨額の融資を得た。それだけ当時のクナーベは、ボルティモア随一の大企業であり、そのブランドは力を持っていたのである。

ボルティモアのクナーベ社工場全景1873年

ボルティモアのクナーベ社工場全景1873年

19世紀末頃のクナーベのアートケース

19世紀末頃のクナーベのアートケース

さらに、彼は南北戦争であまり荒廃しなかった西部に目をつけた。兄に会社を任せると大量のピアノを持ち、セールスの旅に出たのである。この旅で、弟は全ての在庫を売り切り、更に会社がフル稼働しても追い付かない程の注文で沸き返った。クナーベは大メーカーとして立ち直り、19世紀末から20世紀初頭にかけて最盛期を迎えるのである。時あたかも、ピアノの黄金時代と重なり、その中心を担ったと言えよう。

それを象徴するかのように、1891年ニューヨークのカーネギーホールが完成し、そのこけら落とし公演が行われ、ロシアから作曲家チャイコフスキーが招聘され、彼の指揮と、リストの弟子の女流ピアニスト、アウス・デア・オーエの協演で著名な「チェイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ長調」が演奏された際に、そのピアノにクナーベが使用された事は、その絶大な名声を示して余りあるものであろう。

クナーベを愛用した大音楽家達(中央:L.ゴドウスキー)

クナーベを愛用した大音楽家達(中央:L.ゴドウスキー)

クナーベを前にしたビューローとダルベール

クナーベを前にしたビューローとダルベール

クナーベの特徴は、「シンギングトーン」と呼ばれる、人の歌声のような美しい音色にあり、世界各地での博覧会で最高賞に輝き続け、世界的名器として名声を確立し、リストの弟子として知られる大ピアニスト、ハンス・フォン・ビューローやオイゲン・ダルベール、フランスの大作曲家カミーユ・サン=サーンス、そして、「ピアニストの中のピアニスト」と謳われた、ポーランドの生んだ歴史的巨匠レオポルト・ゴドウスキーなどがこよなく愛用した事でも知られている。また、1926年には、同じくニューヨークのメトロポリタン歌劇場の公式ピアノに指定され、その「シンギングトーン」が遺憾なく発揮され、多くの歴史的な歌手たちに愛用された。

ルーサー・ホワイティング・メイソンのクナーベ1879年製(同型)

ルーサー・ホワイティング・メイソンのクナーベ1879年製(同型)

日本では、現在の東京藝術大学の前身に当たる音楽取調掛で、当時の日本政府がアメリカから招いた初の外国人教師ルーサー・ホワイティング・メイソンが、クナーベのアップライトピアノを日本に持参し、現在も東京藝術大学に保存されている。近世日本に公式に持ち込まれた最初のピアノであり、大正時代に、上述の世界的巨匠レオポルト・ゴドウスキーが来日した際には、2台のクナーベを持参して日本各地でリサイタルを行い、鮮烈な印象を残した事が記録されている。

クナーベを弾く若きニレジハージ

クナーベを弾く若きニレジハージ

ナーベ社のカタログに登場したニレジハージ(1921年頃)

ナーベ社のカタログに登場したニレジハージ
(1921年頃)

また、1970~80年代に「幻のピアニスト」として騒がれ、晩年の来日時に群馬県高崎市を訪れたハンガリーの伝説的ピアニスト、エルヴィン・ニレジハージも、その若き日1920年代にアメリカでのコンサートでクナーベを使用した資料が残されている。

<追加資料>
弊社展示中のグランドピアノ “Style A”(1916年製)の製造当時、1915年のカタログです。

1915年のカタログ
1915年のカタログ
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ヤマハ(YAMAHA~ヤマハ株式会社)

1887年にヤマハの創業者、山葉寅楠が静岡県浜松市で1台のオルガンの修理をきっかけとしてオルガンの製作を決意し、1897年に日本楽器製造株式会社を設立して初代社長に就任します。

やがて彼は国産ピアノの製造を志して渡米し、アメリカのピアノメーカーを熱心に視察してピアノ製造への見識と研究を深め、ピアノ製造用の資材や工作機械等と共に帰国し、1900年からピアノ製造を開始しました。

1916年には2代目社長に天野千代丸が就任し、ピアノ製造は創業者一族の山葉直吉と、後のカワイ創業者となる河合小市らが当りました。またドイツ・ベヒシュタイン社の技師長であったエール・シュレーゲル氏を招き、ヨーロッパの伝統的なピアノ製造法の伝承を受けた事によって品質が飛躍的に向上し、その後の繁栄の基礎となりました。

1927年に川上嘉市が3代目社長に就任し発展を続けますが、その後の太平洋戦争の影響を受け、空爆により浜松の工場が全焼する等の被害を受けながら、終戦後わずか2か月後には早くも楽器製造を再開。1947年4月にはピアノ製造の再開を果たしました。

1950年に川上源一が第4代社長に就任し、品質の均質化のための技術の応用による楽器製造の多角化や、戦後の経済復興とともに音楽の一般への広範囲な普及に貢献し、管楽器、弦楽器、打楽器まで幅広く製造する総合楽器メーカーとしての基礎を固めます。更にイタリアから高名なピアノ技術者タローネを招いてフルコンサートグランドピアノCFを完成。

更に、世界一流の演奏家達のコンサートや、世界有数のコンクールで使用される事によって次第に世界の音楽家たちから認知され評価されていきました。 とりわけ、ヤマハはアクション等のメカニック面での質と精度の高さについては世界的に定評があり、世界の代表的なピアノの一つに数えられています。

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カワイ(KAWAI~株式会社河合楽器製作所)

世界的を代表するピアノメーカーの一つに数えられるカワイは、1927年(昭和2年)、創業者の河合小市が、日本楽器製作所(ヤマハ)を退職した後、河合楽器研究所を設立し、一緒に退職した多くの技術者たちと工場とも呼べない小さな倉庫での創業でした。

そして、同年には初めて「昭和型」と名づけられた小型アップライトピアノを発売。さらに1928年にはグランドピアノの第一号機「平台1号」を発売し、以後は需要に応えて工場を拡大。

1929年には河合楽器製作所と改称。独自の仕組みを持ち特許を認められた「自在アクション」や、同じく特許を取った新式の響板などを次々に発明し、順調な滑り出しをみせました。

終戦後は、大変な困難の中で1948年(昭和23年)にピアノ・オルガンの製造を再開。1950年には戦後初のグランドピアノ500号が製作されました。

更に1952年には600号・800号と次々に新しいグランドピアノが発売され、カワイピアノは全国に広がっていきました。

1955年に二代目社長に就任した河合滋は、生産体制の整備と共に調律技術者の育成を目的として、ピアノ調律技術者養成所を設立し人材の育成にも努めています。そして1970年、独特の「カワイトーン」にさらに磨きをかけたグランドピアノKGシリーズ6機種を発売。

1980年(昭和55年)グランドピアノ専門工場としては世界最大の規模を誇る竜洋工場が完成し、1981年、この工場でカワイの技術を結集させた「フルコンサートピアノEX」が誕生。その後、竜洋工場では多くのグランドピアノを生み出し、国際ピアノコンクールなどで活躍を続け、世界の檜舞台に欠かすことのできない存在となっています。

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ディアパソン(DIAPASON〜株式会社ディアパソン)

ディアパソンピアノの設計は日本のピアノ界の名工として広く知られる大橋幡岩です。

彼は13歳で日本楽器(現ヤマハ)に入社し、日本楽器がドイツ・ベヒシュタイン社から招聘した技師エール・シュレーゲルの薫陶も受け、昭和初期、ピアノの発祥の地でもあり、数多くの名器を生み出したヨーロッパに渡って研究に努めました。

帰国後、日本楽器に迎えられ、設計・製作・開発の第一人者として辣腕を振るいましたが、会社の量産化への方向転換を機に、日本楽器を退社しました。そして、「自分が理想とするピアノを作りたい」との思いに駆られ、「理想のピアノ」を念頭に設計し、1948年にディアパソンピアノの第1号が完成しました。しかしながら、採算性を度外視したピアノ製作のため、経営状態はけっして楽なものではありませんでした。

その後、河合楽器製作所が営業権の譲渡を受け、大橋氏の設計と仕様を受け継いで生産されています。

ディアパソンピアノの特徴は総1本張りという張弦方式を採用しているということです。加えて、ベースになるモデルに外装や譜面台のデザイン、ハンマー(レンナー製・ロイヤルジョージ製など)、弦(レスロー製・国産高級ワイヤーなど)、鍵盤(象牙、黒檀)を選んでオーダーできる事にあり、アップライトピアノにおいても一部対応しています。

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アポロ(APOLLO~東洋ピアノ製造株式会社)

日本楽器(現在のヤマハ)から河合楽器と渡り歩き、ヤマハの創業者一族の山葉直吉氏、カワイ創業者の河合小市氏のもとで修業を積んだピアノ技術者、石川隆己氏が、1934年(昭和9年)浜松市に三葉楽器(東洋ピアノの前身)を創業した所からアポロピアノの歴史が始まります。

そして戦後1948年(昭和23年)東洋ピアノを創立しました。当時、出来あがったピアノの1台1台に社長が直筆のサイン(揮毫)を書いて出荷していました。また弟子が作ったピアノが気に入らないとピアノを炉の中に放り込んで燃やしてしまったなど、仕事に厳しい人としてのエピソードが伝えられています。

ドイツピアノの伝統に対する畏敬の念を忘れず、技術者としての恥を知れ、畏れを知れが口癖だったと言われています。その後、東洋ピアノ製造(株)を設立し、本社を浜松市北寺島町に構え、浜松市高丘町にオルガン専用工場を建設。また東京事務所を開設し、磐田郡竜洋町に工場を建設し発展を遂げます。

アポロはアップライトピアノ3本ペダルの開発や、他社にさきがけアップライト ピアノに総アグラフを採用するなど先進性に富み、アップライト弱音ワンタッチペダルを開発して特許を取得する他、半世紀以上にわたって独自の技術と感性でピアノづくりをすすめています。

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シュバイツァスタイン(Schweitzerstein 〜シュバイツァ技研)

1954年(昭和29年)、静岡県磐田市で創業者の中森日出夫が松本ピアノの技術者であり音楽家でもあった原信義と出会い、その協力により技術と音楽の両面からドイツのピアノを研究し、シュバイツァスタインの基本設計を完成し、その製造指導を受けて製造を始めました。

後に、同社に日本楽器の徒弟制度の時代より技術を鍛えられた技術者・大石日出雄が入社し、マツモトの技術に加え、ドイツ・ベヒシュタイン社の影響の色濃い時代のヤマハの技術が加わり、現在のシュバイツァスタインが出来上がっていました。

この名前の由来はノーベル平和賞受賞者であるアルバート・シュバイツァ博士から直々に命名されたもので、博士は哲学者・医師としてだけでなく、音楽家(オルガニストでバッハの研究家)としても有名で、その博士から完全な形でデザインされた現在のロゴマークを直接贈られ、使用しています。

製品はドイツのピアノ製造の基本に加え、独自の改良を多く試みて更に良いピアノ作りに専念し、1966年(昭和41年)NHK奨励賞・特許庁長官賞に輝いた山本DSサウンドバー(世界9カ国の特許)の採用して、アップライトピアノの音質・音量の決定的改良に成功しました。

この影にはNHK専属のピアニストとして著名な天地真佐雄氏ご一家や、日本のピアニストの草分けの一人でバッハ演奏の権威、豊増昇先生やその直弟子の中川洵先生や岩崎淑先生など多くの方々から無償でのアドバイスにより、製品の向上に貢献しました。

シュバイツァスタインのピアノは、張力に余裕の有る設計により、伸びやかな音色と耐久性に優れ、幅の有る美しい響きが得られます。部品や材質は可能な限り、安定した素材を使用し、職人の手作業により加工、組み立て、調整を行い数少ない国産手工芸ピアノとして存在し、多くの方の支持を得ています。

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シュベスター(Schwester〜シュベスター・ピアノ)

シュベスター・ピアノは1929年に創業しました。現存する国内のピアノメーカーとして3番目に古い歴史をもっています。

シュベスターとは、ドイツ語で 「姉妹」 の意味です。その繊細で艶のある音色はヨーロッパの伝統を受け継いでいます。現在では珍しい「すべて手づくり」 によるピアノ製造を続けており、台数を限って生産される数少ない国産のピアノメーカーです。そこには、伝統に培われたピアノ製造のノウハウを生かし、素材選びから独自の基本設計、精巧な組み立て、調整・調律・整音に至るまで音にかかわる全てを、熟練した職人気質の技術者によって仕上げられます。

シュベスター・ピアノの持つ、質の高い、表現力に卓越した音色には定評があり、熱烈なファンを多く持つことでも知られています。

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クロイツェル(Kreutzer〜クロイツェル・ピアノ)

1949年に静岡県浜松市で創業しました。

名称の「クロイツェル」とは、世界的なピアニスト・指揮者であり、戦前に来日して定住して、戦前・戦後を通じて、亡くなるまで日本の音楽と教育の発展に大きな貢献をしたことで知られるレオニード・クロイツァー氏の名前をもらったものであり、1951年より製造されています。

内部はもちろん外装キャビネットについてもファッショナブルでアンティークなデザインを基本に手作りで製造されている数少ないピアノメーカーの一つであり、更にデザインや塗装仕上げの特別仕様のピアノも製造しており、その気品高いデザインと音色には定評があります。

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オオハシ(Ohhashi〜オオハシ・ピアノ)

オオハシは、昭和のピアノ名工と言われた国産ピアノ製作の第一人者、大橋幡岩氏が1958年(昭和33年)に創業しました。

この時に設計されたモデル132号は名器の誉れの高いもので、このモデルを中心に、翌34年より平成7年の工場閉鎖まで親子ニ代に亘って、合計4639台(グランドでは183型が37台、210型が16台の計53台のみ)が製造されました。

大橋幡岩氏が直接製造に関わっていた時代のピアノは1980年(昭和55年)まで。そして、息子の巌氏は平成3年までであり、その後は、仕掛り品や、残った材料で弟子達が約100台を組み上げて製造して、平成7年に自主廃業して幕を閉じました。

大橋ピアノ研究所の歴史や製作の経過などがテレビなどに取り上げられ、「父子二代のピアノ 人あればこそ、技 人ありてこそ」(三省堂書店)が出版され、ますます"幻のピアノ"としてOHHASHIの名はピアノ業界に響き渡っており、そのピアノはますます名声を高めています。

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